家康と秀吉の微妙な関係-2
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そんなわけで、秀吉は自分の手中に治めた織田家の勢力を背景に、四国・中国地方などを次々と屈服させて支配圏を広げていきますが、家康は秀吉の傘下に加わる事はなく、三河・遠江・駿府・信州・甲斐(愛知県東部から静岡の西半分と山梨・長野の一部)地方を治めつつ、時世を静観する事になります。
日本統一を志すために、なんとか家康を家臣に加えたい秀吉は、結局
「天下の為に、ワシの配下になってちょ m(_ _)m」
と頭を下げて、自分の母親を人質として差し出し、家康を家臣したのです。家康も時世の流れを読み取り、これ以上秀吉と敵対すれば、いずれ日本の中で孤立してしまうと判断したわけです。
その時から秀吉と家康の間には†微妙な関係†が続いていきました。最後まで秀吉に逆らった関東の北条氏を滅ぼした後、北条氏の版図であった江戸225万石の領地を、秀吉は気前良く家康にくれてやりましたが、この裏には徳川家代々の地盤である三河地方から、家康を引き離すことによって、一時的にしろ家康の力を弱める事が出来ると考えていたようです。
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