三成の最期

石田三成を匿っていた古橋村の農民はそんなお触れが出ても、三成を捜索隊に売り渡すようなマネはしませんでしたが、三成自身が、村に迷惑が掛かる事を嫌い、農民に通報させて、捜索隊に捕縛されました。

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三成は他にほ捕縛された安国寺恵瓊と共に、大阪や堺などを引き回しされた後に、京都の六条河原で斬首の刑に処され、その首は同じく京都の三条河原に晒されたそうです。

そんな三成の有名なエピソードとして、斬首されるために刑場へ向かう三成が、

「喉が渇いた。白湯をくれ」

と護送役の組頭に言うと、組頭はいちいち白湯を用意するのが面倒くさくて、たまたま持っていた干し柿を差し出しました。

すると三成は

「干し柿は痰の毒だ」

といって食わなかったそうです。

「これから死ぬヤツが、身体の健康を心配してどうする? ┐('~`)┌」

とあざ笑った組頭に対して三成は、

「大望があるものは、最後の最後まで諦めんものじゃ! ヽ(`Д´)9」

と一喝しました。

三成が、本当に豊臣政権の為を願って、家康おやぢに戦いを挑んだのは、彼の性格を考えて間違いはないと思われますが、もし、三成が家康を倒して豊臣政権を守った場合、その後の日本が〝戦のない社会〟になっていたか?というと難しい問題です。

おそらく、家康のほかにも現れる〝天下を狙う大名〟の登場で、世の中は再び戦国時代に逆戻りしてしまったかもしれません。そういう意味では三成の死は、〝戦のない社会〟を作るための礎だったと言えるでしょう。

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