黒田家の関が原
小山評定で〝やらせ演出〟を行い、多数の西軍大名を寝返らせ、さらに関が原の戦場では多くの武功を立てて、家康おやぢに誉められまくり、第一の功労者として筑前名島(現在の福岡)52万石の大領を貰った黒田長政が、有頂天になって父・如水の居る九州に帰ってきました。
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長政を迎える如水のご機嫌は、相当悪かったのですが、長政はそれに気づかず、関が原での自慢話を散々話し、最後には
「父上、内府(家康の呼称)殿は拙者の手を取って、〝此度の戦は貴殿の働きがあったからこそ勝利できた!〟と感謝してくれました (・∀・)」
と無邪気に凱旋報告をします。不機嫌にそれを聞いていた如水はふと、
「内府殿が握ったのは、そちのどちらの手だった?」
と尋ねました。長政は自分の記憶を辿るように、一瞬目を宙に浮かせながら考えると、
「右手でございました (・∀・)ノ」
と答えます。すると如水は間髪を入れず、
「その時、そちの左手は何をしておった?! ヾ(`◇´)ノ」
と言い放ちました。
つまり、そこまで家康に接近していたのであれば、どうして家康が長政の手を取っている内に、空いている左手で短刀を抜き、家康をその場で刺し殺してしまわなかったのか?という意味です。
家康おやぢが死ねば、再び天下は乱れ、黒田如水のような〝現役戦国武将〟に天下を狙えるチャンスが訪れるわけで、武将であれば常に天下を狙うのが本懐だと思っている如水にとって、長政が心底家康に雌伏しているのが不愉快で仕方なかったのです。
家康が関が原を目指して江戸を出発してから、1ヶ月余りで如水は九州の大部分を平定してしまいました。
そして『関が原の戦い』の合戦が長期化すれば、九州から中央に攻め上る計画だったのですが、
「三成、たった半日で大敗 ('A`)」
という報告を早舟で、受け取ると
「天下はオレに微笑まなかったな… ┐('~`)┌」
とあっさり野望を捨て、家康に対して
「内府のために、九州を平定しておきました ( ´∀`)ノ」
と抜け抜けとした報告をしました。如水の性根も見抜いている家康は対して喜びもせず、
「如水め…誰の為に骨を折ったのやら…(-_- ∂)ポリポリ」
と呟いたそうです。
下克上の時代を生き抜き、最後まで天下を狙った如水と、自分が担ぐべき主人を定めて、主人の為に自分の才能を発揮した長政は、新旧世代の武将のあり方を端的に見せています。
この『関が原の戦い』を最後に下克上の世界を生き抜いた〝戦国武将〟はひっそりと姿を消していく事になったわけです。
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