島津家
島津家は、薩摩(現在の鹿児島県)を支配する大名です。当時の島津家の当主は、島津義弘(しまづ よしひろ)で、義弘は石田三成が挙兵した時には、大阪の大名屋敷に滞在していました。
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義弘は戦準備をして大阪に上ってきたわけでもありませんので、手元にはほとんど兵は持っていません。ですから家康おやぢの上杉討伐令に従い、地元の薩摩に対して出兵を要請して兵が上ってくるのを持っていたのです。
しかし義弘の場合、特殊な事情がありました。先ほど島津家の当主は義弘だと書きましたが、実はこの時期薩摩には前の当主で、義弘の兄である島津義久(しまづ よしひさ)がピンピンしており、島津家は義久と義弘の〝二人当主体制〟になっていました。
これは戦国時代末期、九州地方の大部分を版図に納めていた島津家が、秀吉の〝九州征伐〟によって、旧領(現在の鹿児島県)のみに領土を減らされ、狭くなった領土を兄弟で治めているという妙な体制になっていたのです。
そんな義弘と義久が、正式な当主の座を争って仲が悪かった、というわけではないのですが、今回の戦騒ぎ関して国許の薩摩では家康派と三成派、どちらを支持するか意見が分かれてしまい、結果的に義久は
「島津家としては、今回の戦はノータッチ ┐('~`;)┌」
という事で派兵をしない事にしたのです。
当時TVもインターネットもない〝情報スローライフ時代〟では、天下を二分する戦に、ノータッチなどという立場を取るのは到底不可能だという雰囲気は、薩摩まで伝わらなかったのでしょう。
もっとも、義弘の要請に対して個人的に義弘を慕う薩摩武士たちの何人かは、手弁当で大阪に駆けつけた者もいましたが、それでも最終的に義弘の下に集まった兵は、わずか1600人程度でした。
実は当初、島津義弘はこの手勢を集めて家康に味方するつもりだったと言われています。
家康が天下盗りのために最初に打った手段として、
〝今まで親交のなかった大名と仲良しになる (・∀・)〟
というものがありましたが、この方針で疎遠だった家康と義弘は大変仲良しになり、そんな家康は会津討伐に発つ前に、
「もし、ワシの留守中に〝誰かが〟ワシを倒す為に大阪で挙兵したら、伏見城に残る家臣たちを守る為に、伏見城へ入って一緒に戦って欲しい m(_ _)m」
と、義弘にコッソリ要請していたらしいのです。
義弘はこの家康からの要請を果たす為に、1600名の部下を引き連れて伏見城を目指しました。ところが、どうした連絡の行き違いか、伏見城に立て篭もる鳥居元忠には、義弘が援軍に駆けつける事は知らされておらず、
「伏見城は徳川家だけで守るんじゃ!ヾ(`皿´)9」
と義弘は入城を拒否されてしまいました。それで
「家康おやぢに騙された! ヽ(`Д´)ノ 」
とブチ切れた義弘は西軍に参加する事に決めたというわけです。
このエピソードには異説もありますが、島津家は〝成り行き上〟西軍に加わったというパターンです。
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