小山評定

福島正則だけでなく、家康おやぢに付き従って会津征伐に向かっていた豊臣大名たちにとって、小山評定前夜は〝眠れない夜〟だったでしょう。

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小山評定が行われたのは、現在の栃木県小山市の市役所付近だと言われていますが、この評定を開くために、急遽諸大名が集合できるだけの仮御殿を建築したと言われています。

その仮御殿の上座に家康おやぢと、息子で後の二代将軍になる秀忠(ひでただ)が、ドッカリと座り、徳川家の家臣である本多忠勝(ほんだ ただかつ)が司会進行を務めました。諸大名たちの集合が終ると、忠勝は

「皆の衆もご存知の様に、石田三成がわが殿を謀反人に仕立て上げて討とうとしておる。これは言いがかりであり、我が徳川家としては、無実の罪を晴らすために、会津へは向かわず、ここから軍を反転させて三成を討つ! ( ̄^ ̄)9」

と声を張り上げました。忠勝はさらに

「されど、この戦いは徳川家が挑まれた戦いであるから、豊臣家から恩寵をうけた大名である皆の衆は、今からこの場を離れて、三成の味方をしてもわが殿は、止めはしない! 戦場で堂々と刀を交えようぞ! d( ・`д・´)」

とも言いました。つまり家康は、

〝西軍に今から鞍替えしたければ、自由にしてOK! (・∀・)v〟

と太っ腹なところを見せたわけです。

ところが、本多忠勝がそういった直後、福島正則がいきなり立ち上がり、

「何をおっしゃる! 三成こそ秀頼様を騙して天下を乗っ取ろうとしている悪党じゃ! われら内府(家康おやぢの呼称)殿にどこまでもお味方しますぞ! ここにいる皆も考えは同じはずじゃ ヾ(`◇´)9」

と叫んだのです。この正則の発言に続くように、黒田長政も

「その通り!ワシも内府殿にお味方しますぞ! (・∀・)ノ」

と叫んだ為、その場にいた諸大名は次々と家康の味方をする表明をしました。

小山評定はあっという間に〝家康応援ムード〟に支配されてしまい、さらには掛川(現在の静岡県掛川市)で6万石ほどの小大名である山内一豊(やまのうち かずとよ)が立ち上がり、

「内府殿! 拙者ももちろんお味方します! さらに我が城も兵糧も全て内府殿へ献上いたしますぞ! ( ´∀`)9」

という一豊のひと言で、これから進軍する東海道に城を持つ大名は、次々と一豊にならって城と兵糧を提供することを申し出たのです。

それまで満足げに評定の進行を眺めて黙っていた家康でしたが、一豊のひと言には思わず腰を浮かして、

「対馬守(つしまのかみ。一豊の呼称)殿! かたじけない!!」

と叫んだと言います。

そんな異様な興奮と共に、小山評定は終わりを告げました。

これまで豊臣政権の上杉征伐隊として、進軍してきた豊臣政権の大名たちは、自ら家康の行動に付き従って、家康の味方をするという決断をした事によって

〝家康の手下〟

になってしまったのです。

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